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「主は絶えず、あなたを導いて」(イザヤ58:11)

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今回は、旧約聖書のイザヤ書から16回目のメッセージです。前回、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56:7)とのテーマから2回目のメッセージを語りました。イザヤは新しい祈りの家がユダヤ人や異邦人も含めて作られていくことを預言しています。終末の時代に生きている私たち信仰者は、新しい祈りの家で礼拝をささげています。教会こそ、祈りの家であり、聖なる宮であり、また神の御住まいです。新しい礼拝をささげる、それが新約時代に始まったのです。新しい礼拝、その視点から、当時のイスラエルの民の礼拝の現状を見てみたいと思います。イザヤ58章には、形式的な当時の礼拝の姿が映し出されています。偽善の祈りと断食に対する神の非難のメッセージが語られています。この非難のメッセージを通して、何が真実な宗教なのか、また、礼拝なのかを今日ご一緒に学んで行きたいと願います。それでは、58章を読んでみてください。
この箇所を読み進めて行くと、きっとパリサイ人と取税人の祈りのたとえ話が思い浮かぶのではと思います。イエス様のたとえ話の一つですが、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに向けて語られたたとえ話です。ルカ18章9-14節にそのことが書かれています。(参照北澤牧師のメッセージ)。祈るために宮に上ったパリサイ人と取税人の話です。パリサイ人は祈ります。「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、・・ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、(11)」と書かれています。自分の行ないの正当性をアピールしている祈りです。週に二度断食することは、熱心なパリサイ人が守る宗教的な儀式であったようです。どんなに宗教的に熱心であっても、他者に対する憐れみの心を失ってしまう、その様な方の信仰はいかがなものなのでしょうか。自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち、そのような心の状態こそ、イザヤが預言した民の心をよく表していると思います。
1節の後半には、「わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。」と書かれています。指導者を含めた民の礼拝の姿に問題があったのです。2節には、「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。」とあります。彼らは礼拝をささげ、神を求めていたのです。時には偽預言者に導かれ、また祭司を通して動物の捧げものをささげていたのです。そして、自分たちは律法を守っているとの自負があったのです。彼らは確かに口先では、「神に近づくことを望んでいる。」(2)と言います。さらに「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。」(3)と神に向かって語っています。自分たちが断食をしていることを見てほしい、どんなに宗教的な人間であるかを見てほしいと、神に願っているのです。断食、それは形式的な信仰者には自分がどれだけ宗教に熱心であるかを見せつける宗教的な儀式になっています。しかし、本来断食は、尊いものです。食事の時間をその準備を含めて、その時間全てを、色々な心配や思い煩いから解放されて、ただ唯一の神に目を注いていく、それが断食の祝福です。こころを神のみ言葉に向けていく、神に感謝する、自分や他者のために祈る、神の導きを求める、それが断食の時間の取り方です。そのような機会となる断食であれば神様も彼らに目を注いてくださったと思うのです。しかし、神に焦点をおかない断食は、自分を正当化する宗教的な儀式になってしまいます。そして、自分はこんなに努力をしているのにと、他者への裁きの原因となってしまうのです。
3-5節には、断食をしながら、自己義認をし、他者を傷つけている当時のイスラエルの民の姿が表現されています。「断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。」と3節の後半に書かれています。神に焦点が向いていないのです。自分が断食をするのだからと、本来自分がすべきことを他者にゆだねて平気なのです。神に焦点が向かない断食は争いやけんかの原因ともなるのです。外面的には謙遜に見えたとしても、こころが伴っていないのです。
6節からは、断食の本来の姿が表現されています。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」と。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどきとは、奴隷にたいする過酷な労働を指す表現です。奴隷が過酷な労働から自由にされるように、私たちも神に視点を置いて、罪の赦しを覚え感謝するのです。食事を取る時間を含めてキリストの十字架の贖いを覚えて、できる限り神に感謝をささげるのです。自由にされた喜びを神と共にするのです。そして、他者の救いのために祈り、彼らの必要のために祈るのです。他者の痛みや乏しさに目を向ける時とするのです。肉親に目を向け、彼らの必要に答える時とするのです。他者に目を向け、愛の行動を伴う生き方に気づくこと、それが神の好む断食です。そのような断食、また礼拝こそ、私たちが目指すものです。8節には、光がさす、いやされる、義があなたの前に進む、主の栄光があなたのしんがりとなられる、とあります。イスラエルの民がエジプトから解放されたように、主があなたの前に、また後に進まれるのです。
9節には、「そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え、」とあります。さらに、11節には、「主は絶えず、あなたを導いて、焼け付く土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。」と書かれています。私たちの信仰は愛の神を信じる信仰です。十字架で贖いの業をなし遂げてくださったイエスを信じる信仰です。イエスに精一杯の感謝をささげてまいりましょう。こころを一つにして、神を礼拝してまいりましょう。形式的な断食の必要はもうありません。どんな小さな祈りでも神は聞いておられます。主は絶えず、私たちを導いてくださる、このみ言葉を信じて行きましょう。2人でも3人でも信仰者が集まる群れの中にイエスが臨在されるのです。イエスは、私たちの歩みを導いてくださいます。加えて、潤された園のように、水のかれない源のようにされる、その約束を信じる信仰者でありたいと願っています。
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この箇所を読み進めて行くと、きっとパリサイ人と取税人の祈りのたとえ話が思い浮かぶのではと思います。イエス様のたとえ話の一つですが、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに向けて語られたたとえ話です。ルカ18章9-14節にそのことが書かれています。(参照北澤牧師のメッセージ)。祈るために宮に上ったパリサイ人と取税人の話です。パリサイ人は祈ります。「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、・・ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、(11)」と書かれています。自分の行ないの正当性をアピールしている祈りです。週に二度断食することは、熱心なパリサイ人が守る宗教的な儀式であったようです。どんなに宗教的に熱心であっても、他者に対する憐れみの心を失ってしまう、その様な方の信仰はいかがなものなのでしょうか。自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち、そのような心の状態こそ、イザヤが預言した民の心をよく表していると思います。
1節の後半には、「わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。」と書かれています。指導者を含めた民の礼拝の姿に問題があったのです。2節には、「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。」とあります。彼らは礼拝をささげ、神を求めていたのです。時には偽預言者に導かれ、また祭司を通して動物の捧げものをささげていたのです。そして、自分たちは律法を守っているとの自負があったのです。彼らは確かに口先では、「神に近づくことを望んでいる。」(2)と言います。さらに「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。」(3)と神に向かって語っています。自分たちが断食をしていることを見てほしい、どんなに宗教的な人間であるかを見てほしいと、神に願っているのです。断食、それは形式的な信仰者には自分がどれだけ宗教に熱心であるかを見せつける宗教的な儀式になっています。しかし、本来断食は、尊いものです。食事の時間をその準備を含めて、その時間全てを、色々な心配や思い煩いから解放されて、ただ唯一の神に目を注いていく、それが断食の祝福です。こころを神のみ言葉に向けていく、神に感謝する、自分や他者のために祈る、神の導きを求める、それが断食の時間の取り方です。そのような機会となる断食であれば神様も彼らに目を注いてくださったと思うのです。しかし、神に焦点をおかない断食は、自分を正当化する宗教的な儀式になってしまいます。そして、自分はこんなに努力をしているのにと、他者への裁きの原因となってしまうのです。
3-5節には、断食をしながら、自己義認をし、他者を傷つけている当時のイスラエルの民の姿が表現されています。「断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。」と3節の後半に書かれています。神に焦点が向いていないのです。自分が断食をするのだからと、本来自分がすべきことを他者にゆだねて平気なのです。神に焦点が向かない断食は争いやけんかの原因ともなるのです。外面的には謙遜に見えたとしても、こころが伴っていないのです。
6節からは、断食の本来の姿が表現されています。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」と。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどきとは、奴隷にたいする過酷な労働を指す表現です。奴隷が過酷な労働から自由にされるように、私たちも神に視点を置いて、罪の赦しを覚え感謝するのです。食事を取る時間を含めてキリストの十字架の贖いを覚えて、できる限り神に感謝をささげるのです。自由にされた喜びを神と共にするのです。そして、他者の救いのために祈り、彼らの必要のために祈るのです。他者の痛みや乏しさに目を向ける時とするのです。肉親に目を向け、彼らの必要に答える時とするのです。他者に目を向け、愛の行動を伴う生き方に気づくこと、それが神の好む断食です。そのような断食、また礼拝こそ、私たちが目指すものです。8節には、光がさす、いやされる、義があなたの前に進む、主の栄光があなたのしんがりとなられる、とあります。イスラエルの民がエジプトから解放されたように、主があなたの前に、また後に進まれるのです。
9節には、「そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え、」とあります。さらに、11節には、「主は絶えず、あなたを導いて、焼け付く土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。」と書かれています。私たちの信仰は愛の神を信じる信仰です。十字架で贖いの業をなし遂げてくださったイエスを信じる信仰です。イエスに精一杯の感謝をささげてまいりましょう。こころを一つにして、神を礼拝してまいりましょう。形式的な断食の必要はもうありません。どんな小さな祈りでも神は聞いておられます。主は絶えず、私たちを導いてくださる、このみ言葉を信じて行きましょう。2人でも3人でも信仰者が集まる群れの中にイエスが臨在されるのです。イエスは、私たちの歩みを導いてくださいます。加えて、潤された園のように、水のかれない源のようにされる、その約束を信じる信仰者でありたいと願っています。
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