「偽りのことばを信頼してはならない。」(エレミヤ7章4節)
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今回は、エレミヤ書から5回目のメッセージです。前回は、「エルサレムよ。戒めを受けよ。」(エレミヤ6章8節)とのテーマで語りました。戒めるとは、同じ様な過ちをおかさないように注意するとの意味があります。私たちも、過去の出来事から多くのレッスンを受け取ることができます。エレミヤは、真実な悔い改めをしない民を見て、預言者としての働きに疲れ果ててしまう体験をしました。しかし、その思いを聞く耳のある者たちに語るようにと、神は彼に語りかけておられます。また、6章16節には、「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸の道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」と書かれています。四つ辻とは、道路がいくつかかさなっている所です。そこに立てば、いくつかの道路を見渡すことができます。そこで、今までの道を振り返り、幸への道や、いこいの場があったことを思いだすことができます。同じ過ちを犯さない、その思いで自分の人生を振り返る者でありたいです。さらに、6章27節にあるように、ためす者、試みる者として、神の視点(聖書)から人生を見ることができる者になりたいものです。
今日は、7章に入ります。神殿での説教の箇所です。エレミヤは、当時の礼拝者の現状を厳しく糾弾しています。それは信仰の対象と、民の生き方が神の教えから大きく離れてしまっていたからです。私たちも、形式的な礼拝の虚しさに気づいて、真実な礼拝者にならせていただきたいと願います。それではエレミヤ書7章をお読みください。
7章1,2節には、「主からエレミヤにあったみことばは、こうである。主の家の門に立ち、そこでこのことばを叫んで言え。」と書かれています。エレミヤは神を礼拝するために、主の宮に来ようとする者たちに、神の御言葉を語るように命じられます。3節には、「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。」とあります。エレミヤはユダの民に向かって、悔い改めのメッセージを語ることとなります。4節には、「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」とあります。偽りの言葉とは、神殿は神ご自身の宮であるのだから、外国が攻めてきても絶対に安全だとの間違った信仰のことです。これはちょうど日本人のご利益的な信仰と似ています。続いて5節から、「もし、ほんとうに、あなたがたが行いとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、」と書かれています。信仰者は、何を信じ、どう生きるかを決断しなければなりません。まことの神を信じる者は、その行いや言葉において変革が起こるのです。ところがユダの民は、神の正義や愛を忘れ、外国人や、みなしごや、やもめたちを大切にする生き方を忘れてしまったようです。また罪のない者の血をこの所で流さず、とありますので、正しい裁判がなされず、不正な裁判で人を有罪とするようなことが起こっていたのです。エレミヤ自身も26章で、この出来事に言及するような彼の体験を述べています。ぜひお読みください。さらに、6節の後半には、「ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ」と書かれています。ユダの民は創造主に対する信仰から離れ、偶像礼拝であるバアル礼拝やバビロンの女神イシュタルの礼拝に深く関わっていたのです。
8節には、「なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばに頼っている。」とあります。偽りの言葉とは、4節にあるように、これは主の宮だとの言葉です。主の宮であるのでエルサレムは安全だなどと言う事はありえないのです。イエス様も終末の預言として、荒らす憎むべき者が、聖なる所に立つのを見たら、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい、(マタイ24:16)と語られています。主の宮だから安全だとの信仰は、ご利益的で、多くのユダヤ人たちに災いをもたらすものとなってしまったのです。
9節と10節には、「あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。それなのに、・・・私たちは救われている。」と言っている、と書かれています。真実な信仰、それは創造主への信仰です。偶像に対する信仰ではありません。真実な信仰は、誠実な歩みを生み出します。そして、真の礼拝は、キリストへの感謝と真実な悔い改めを生み出します。そうではないでしょうか。御霊の実を結ぶことのない信仰はむなしいです。ガラテヤ書5章22節には、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。真に救われた者は、謙遜な人生と、御霊の実を結ぶ人生を歩むのです。
12節には、「それなら、さぁ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ。」とあります。シロとは、以前主の宮が置かれた所です。そしてこのシロでサムエルが選ばれ、当時の祭司であるエリとその息子たちが裁かれた所です。サムエルの母であるハンナの祈りが捧げられた所でもあります。このシロでイスラエルの民は主の契約の箱を失うことになります。参照サムエル第一、1,2章。かつて主の宮が置かれた所でも、主の裁きが望んだのです。同様に真実な礼拝が捧げられないエルサレムも、滅ばされるとの神の厳しいメッセージが、続く15節で語られています。
16節には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。」と書かれています。実に驚くべき内容です。しかし、17節から20節を読んでみますと、ユダの民は幼児を犠牲にするような偶像礼拝をし、彼らは神の怒りを引き起こしていることが明らかにされています。これは神が最も嫌う偶像礼拝です。神の裁きは確かに彼らの上に臨むのです。それも、突然に訪れるのです。
今日は、「偽りの言葉を信頼してはならない。」とのテーマで語りました。正しい信仰は、正しい行動を伴います。正しい姿勢で神を礼拝してまいりましょう。キリストへの感謝な思いを忘れることなく、へりくだった心で日々歩んで行きたいと願います。
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