マタイの福音書20章1節~16節 「私はこの最後の人にもあなたと同じだけ与えたいのです。」北澤牧師
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①きょうの聖書個所には、主イエス・キリストの口から語られた、次のような譬え話が記されています。
・あるところにぶどう園を経営している主人がいました。
この日、ぶどう園の主人は、労働者を雇う為に、市場に出掛けて行きました。
・最初は、朝早く。 次に、朝の9時頃。 そして昼の12時頃。 更に午後の3時頃にも出掛けていって、労働者を雇い、ぶどう園に送ったのでした。
・その後、この主人は、夕方の5時頃、市場に行ってみたところ・・何と、このような時間にも、まだ数人がそこに立っているではありませんか・・。
・そこでこのぶどう園の主人は、彼らにこのように聞きます。「なぜ、一日中、仕事もしないで、ここにいるのですか?」すると、彼らは、「だれも雇ってくれないからです。」と答えるのでした。
・そこで、ぶどう園の主人は・・「あなたがたもぶどう園に行きなさい」そう言って、いままでと同じように彼らを雇い、そして、ぶどう園に送ったのでした。
・この人たちは、ぶどう園に着くと、急いで支度をし、籠を担いでぶどう園に入って行ったと思われます。
・一時間後・・、日は沈みはじめ、作業は終了となりました。
・この後、いよいよ労働者たちに賃金が支払われることになったのですが・・ このとき、ぶどう園の主人は、なぜか、現場監督にこのように指示します。 8節「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちまで賃金を払ってやりなさい。」
・この主人は、なぜか、最後に来て、働いたか働かなかったのか分からないような者たちに、先ず、約束通り、一日の賃金を支払うように命じたのです。
・その様子を見ていた、朝から来てずっと働いてきた者たちは、期待を膨らました。
「ここのぶどう園の主人は気前がいい。だから、俺たちには,きっと、もっと多くの賃金を支払ってくれるに違いない・・」
・ところが、実際に彼らがもらった賃金は、最初の約束どおりの1デナリであったのでした。
・そこで、彼らは、主人に文句を言います。 12節「最後に来た者たちが働いたのは一時間だけです。それなのに、あなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと彼らを同じ様に扱いました。」
・ところが、この彼らの文句を聞いたぶどう園の主人は、このように答えます。
13節と14節「友よ。私はあなたに不当な事はしていません。あなたは私と一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。 私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」
・ぶつぶつ文句をいいながら、仕方なく帰って行った人々の姿が目に浮かびます。
・この譬え話は、主イエスの次のようなことばで終わっています。
16節「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
・つまり、先にこの主人との信頼関係ができて、ぶどう園の力となっていた人たちは、・・そのよき関係を最後には壊してしまい。ずっと後になって、ようやく主人との関係ができた人たちに、その良き関係という点で、先を越されてしまった。このようなことは意外とよく起こることなのです。
主イエスはこのように語られるのでした。
②ところで、聖書に出てくる譬え話のところを読んでゆきます時、(これは言うまでもない事ですが・・)
そこに登場する人物やその場所、それは、何を譬えているのか・・そのことがよくわかっていませんと、その譬え話に語られている、神さまからのメッセージが正しく見えてきません。
・そういうわけで、きょうは、先ず、そのことを確認しておきたいと思います。
最初に、この「ぶどう園」ですが・・これは、神の御国のことを表わしているということは誰にもわかります。
・そして、ここに出てくる、主人、これは、神さまのことであるということは言うまでもありません。
少し難しいのは・・ここに出てくる「先の者」と「後の者」とは、いったい、誰のことを指しているのかです。
・きょうのこの箇所、また、その少し前からのところ・・、その文脈を丁寧に読んで行きますと・・
この譬え話を、その時直接聞いていた弟子たちは・・、「先の者」とは、最初に主イエスに招かれた者たち。
つまり、ペテロをはじめ12人の弟子たちのこと。 そして、「後の者」とは、その後に、主イエスに従って弟子たちの仲間になっていった者たちのことを譬えているようだ。このように受け止めていったと考えられます。
・しかし、もしかすると、その弟子の中には、もう少し大きいスケールで主イエスの宣教を聞いていた弟子もいたかもしれません。そのような弟子は、「先の者とは、ユダヤ人キリスト者のこと。後の者とは、この後加えられてゆくであろう異邦人キリスト者のことを譬えているのではないか・・」
このように考えていたかもしれません。 それは、それとして・・
・では、現代に生きている私たちは、この「先の者、後の者」とは、誰のことを指している、と、理解しながら
ここを読んでいくべきなのでしょうか・・。
・私はやはり、「先の者」とは、若くして、自己中心の生き方から回心し、そこから、ずっと長い間、一生懸命、
神さまにお仕えてきたキリスト者たちのこと。
・「後の者」とは、長い間、自分の為にだけ生きてきた人たちが、晩年になって、ようやく神さまに従う者になっていった。いわば、にわかキリスト者たち、つまり、神様にお仕えした時間がとても短かかった人たちのことを指している・・そのように読んでゆくことが、一番素直な読み方であると思います。
・また、そういう具体的な読み方をしてゆきますときに・・ここにある主イエス・キリストのメッセージがよりよく見えてくると思います。
・皆さんの中にも、「ああ、私はもう長い事主にお仕えしてきたなあ・・」そういう思いを抱いている方がおられるかもしれません。そういう思いの方は、ご自分のことを「先の者」と理解されているのだと思います。
・しかし、その一方で・・「ああ、私はなぜもっと若い頃から、主と共に歩む者にならなかったのだろうか・・」
そういう、どこか悔やむ思いを抱きながら、ここを読んでゆかれる方もいらっしゃると思います。
そういう思いの方々は、ご自分のことを「後の者」と理解しておられるのだと思います。
③ところで、きょうのこの譬え話ですが・・この譬え話は、読み手によって、大きくその評価がわかれる、そういう譬え話であると思います。
・「すばらしい譬え話だ」と思う方もいれば、その一方で、「この譬え話、何かわだかまりを感じる。あまり好きになれない。」そうおっしゃる方もおられる。
中には、「こんな話、聞いてはいられない、とんでもない話だ」そんな風に思う方もおられるかもしれません。
〇あれは、牧師になってまだ間もない頃でした・・。
一人の求道中の女子高校生から、こんな質問をされたことがありました。
・「私の父は、『教会ではな、朝からずっと働いてきた人間と、終わり際にちょっとしか働かなかった人間と同じ賃金でいいのだ。こんな話をしてるらしいぞ。いいか、そんな所にはもう絶対に行くなよ。』そう言うんです。 先生、教会では、本当にそんな話をしているんですか?」
・この質問に、私がどう答えたのか・・すっかり忘れてしまいました。しかし、この質問は、非常に印象深い質問でしたので、今でも、その時の彼女のその表情や言い方をはっきり覚えています。
・この方のお父様は、きっときょうの聖書箇所のことを言っておられるのではないかと思います。
ここまで大きな誤解をする方は、教会の中には、なかなかおられないのですが・・
確かに、「この聖書箇所は、何かわだかまりを感じる・・・」そうおっしゃる方は教会内にも結構多いかもしれません。
・では、一番わだかまりを感じやすいところは、どこかですが・・それはおそらく、このぶどう園の主人が、労働者たちに報酬を渡す場面にあると思います。
・このぶどう園の主人は、何と、最初に来た者も・・最後に来た者も同じ賃金を払ったのでした。
・いやそれだけではありません。この主人は、最後に来て、一時間ほどしか働かなかった人たちに、最初に賃金を払ったのでした。「朝早く来た者から、賃金を払うのが、順序というものではないか・・」だれもがそんな風に思います。 しかし、実は、ここが、きょうの聖書箇所の急所なのです。
④では、なぜ、ここで、わだかまりを覚える方が多くおられるのかです・・
・先ず、私たちは、大抵、沢山働いた人、沢山努力した人は、立派な人で、尊敬されに値する人物。また、そのような人は、多くの報いを得て当然。そういう考え方、そういう価値判断を持っているのだと思います。
・つまり、報酬は、その人が仕事に携わった時間、労力、 また、そのことによる成果によって、違いがあってしかるべきだという考え方です。ですから、私たち人間が、人間を雇う場合、当然ながらそこには、報酬の格差、扱いの格差が生じてくるわけです。
・また、人間は、より沢山働く人、より沢山働ける人、能力を発揮する人、そういう人を高く評価してゆく。
そういうことが、尊敬を集める要素になってゆきます。
・その反対に、能力の乏しい者、あまり役に立っていない者、そう思われている人たち、どうしても評価は低く、いつの間にか冷たく扱あつかわれることになる・・これが人間社会のあり様。現実です。いや、当然のこと、社会の常識と言っていいと思います。
・ですから、この譬え話を、文字通り、人間社会の作り出している、働きとその報酬の話そのもの、として読んでしまいますと、これはまったくもって合点のいかない話であるということになるわけです。
・しかし、主イエス・キリストがここで語られているのは・・どこかの会社で働いている労働者のその報酬。そのような話ではないのです。ここで譬えられているぶどう園とは、神さまの御国のことなのです。
・ですから、ぶどう園で働くとは、神さまの呼び掛けにこたえて、主イエス・キリストを我が主とお迎えし、神の民とさせていただき、その恵みの中にあって生きてゆく事を表わしているのです。
・しかし、この御国に招かれてゆくそのタイミングは、一人一人違います。
ある人は、少年、少女時代に、神さまに愛されていることに気づかされ、愛されているにもかかわらず、その方に従っていない、その己の罪に気付き、回心し、神の民となってゆきます。早い人は10代前半です。
・しかし、いろいろと遠回りして、気が付くと、晩年になってしまっていた。しかし、神さまの憐れみにより特別枠のように回心する機会が与えられ、そこでようやく、御国の住民にさせていただいた・・そういう方もおられるわけです。
・では、そういう違いのある人々への、神さまのまなざしはどういうものなのか・・このことを主イエス・キリストは、この譬え話によって語っておられるわけです。
⑤ところで私は、先程、この箇所にわだかまりを覚える方が意外に多い、そんなことを言い出しましたが・・、ではこの私自身は、この聖書箇所をどう思っているのかについて、少しお話をしたほうがいいと思います。
・新約聖書の福音書というところには、主イエス・キリストの語られた譬え話がたくさん残されています。
・その一つ一つを読んでゆきますと、本当に神さまの愛について深く教えられる譬え話ばかりです。
・しかし、私は、その中でも、きょうのこの譬え話が、何と言っても、一番心動かされるのです。最も好きな譬え話はどれか、と 聞かれれば、間髪入れず、きょうの聖書箇所と答えると思います。
・もし、最晩年になって、何も出来なくなり、ただ寝たきりの老人になったその時には、この聖書箇所を誰かに、ゆっくり朗読してもらえたら・・どんなに幸せだろうか・・そんなことを考えたりします。それほど、この譬え話が大好きです。
・なぜ、それほど感動させられているのかですが・・それは、この譬え話は、私にとって、「神さまが、自分の様な者をも、いつくしみ深く見つめておられる」そのことがとてもよくわかるからです。
・私の小さな書斎には、ルターが聖書翻訳したときの書斎の写真が置いてあります。それを見る度に思います。「本当にすごい働きをした人だなあ・・それに比べ、自分の働きはこの人の一万分の一にも届かない・・」
・そういう私ですから、私は、自分のことは、間違いなく、この譬え話で言う「後の者」だと確信しています。ですから、この譬え話を読みます時、私は当然ながら、自然と「後の者」に自分を重ねて読んでゆきます。
そうしますと・・主イエス・キリストが、ここで、後の者の側に立って、後の者を熱い思いで見つめておられることが、とてもよくわかります。
・このぶどう園の主人は、「先の者たち」から非難されるほど、嫉妬されるほど、後の者をひいきしている・・
先の者たちに申し訳ないほど、やさしく接している・・そのことがわかります。
・自分は、どちらかと言えば、先の者ではないか・・そう思って読んでゆくその方には、その神さまのあわれみ深いメッセージはわからないと思います。
・では、これほどまでに大事にされている、後の者たちとは、どういう人たちだったのでしょうか・・。
・この「後の者たち」は、もう日が暮れそうになっている時間に、ぼーっとして町の市場に立っていたのです。
すると、その時、一人の人が近づいて来て、こう聞きます。「なぜ、一日中何もしないで、ここに立ってているのですか」 彼らは、「働きたくないからです。」とは言えず、こんな言い訳を言います。「だれも雇ってくれないからです。」
・つまり彼らは、言わば落ちこぼれの人たちでした。
では、彼らはなぜ落ちこぼれていたのかですが、その理由は、さまざまであったと思います。
虚弱体質の人もいたでしょう。人と対面すること自体が息苦しくいつも生きづらさの中に居る、そういう人もいたでしょう。体がうまく働かず、働かなければ働かなければと思いながらも、労働意欲が出て来ない、そういう人もいたと思います。
・厳しい人でしたら、「何となさけない連中なんだ・・」そう言い出すかもしれません。 しかし、その声を掛けてきたぶどう園の主人は、非難めいたことは一切言わずに、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と言うのでした。
・この・・人間たちの、常識だとか、正しさだとか、そういう考え方を、遥かに超えた、神さまのあわれみ深さ、やさしさ、寛容さに、私は感動するのです。
⑥私がこの譬え話で感動させられていることがもう一つあります。それは、次のようなぶどう園の主人の言葉です。「わたしはこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」
・神さまに招かれ、ぶどう園に入ることがゆるされた人たち、と言っても、考えてみますと、その差は実に大きいと思います。
・先程、ルターの書斎の写真についてお話ししましたが・・、
キリスト者と一言でいっても、その働きの違いは、とてつもない差があるのではないでしょうか・・。
・使徒パウロとか、ルターとか、カルヴァンとか、バッハとか、三浦綾子とか、そういう人たちの働きはもうすごいの一言です・・それ以外にもすごい働きをした方々の名前をあげたらきりがありません。
・一方、ようやく洗礼を受け、皆に迷惑をかけた、かと思うと、まもなく御国に召される方もおられます。
・しかし、この譬え話で、私たちが思い知りますのは・・この御言葉です。
「わたしは、この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」
・あなたも、皆と同じ様に、天の御国に行きなさい、と言ってくださる、と言うのです。
・何という、寛容でしょうか・・・これが、私たちの主イエス・キリスト、その方なのです。
・この方のまなざしをあびながら、今週も前進してゆきたいと思います。
…
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・あるところにぶどう園を経営している主人がいました。
この日、ぶどう園の主人は、労働者を雇う為に、市場に出掛けて行きました。
・最初は、朝早く。 次に、朝の9時頃。 そして昼の12時頃。 更に午後の3時頃にも出掛けていって、労働者を雇い、ぶどう園に送ったのでした。
・その後、この主人は、夕方の5時頃、市場に行ってみたところ・・何と、このような時間にも、まだ数人がそこに立っているではありませんか・・。
・そこでこのぶどう園の主人は、彼らにこのように聞きます。「なぜ、一日中、仕事もしないで、ここにいるのですか?」すると、彼らは、「だれも雇ってくれないからです。」と答えるのでした。
・そこで、ぶどう園の主人は・・「あなたがたもぶどう園に行きなさい」そう言って、いままでと同じように彼らを雇い、そして、ぶどう園に送ったのでした。
・この人たちは、ぶどう園に着くと、急いで支度をし、籠を担いでぶどう園に入って行ったと思われます。
・一時間後・・、日は沈みはじめ、作業は終了となりました。
・この後、いよいよ労働者たちに賃金が支払われることになったのですが・・ このとき、ぶどう園の主人は、なぜか、現場監督にこのように指示します。 8節「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちまで賃金を払ってやりなさい。」
・この主人は、なぜか、最後に来て、働いたか働かなかったのか分からないような者たちに、先ず、約束通り、一日の賃金を支払うように命じたのです。
・その様子を見ていた、朝から来てずっと働いてきた者たちは、期待を膨らました。
「ここのぶどう園の主人は気前がいい。だから、俺たちには,きっと、もっと多くの賃金を支払ってくれるに違いない・・」
・ところが、実際に彼らがもらった賃金は、最初の約束どおりの1デナリであったのでした。
・そこで、彼らは、主人に文句を言います。 12節「最後に来た者たちが働いたのは一時間だけです。それなのに、あなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと彼らを同じ様に扱いました。」
・ところが、この彼らの文句を聞いたぶどう園の主人は、このように答えます。
13節と14節「友よ。私はあなたに不当な事はしていません。あなたは私と一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。 私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」
・ぶつぶつ文句をいいながら、仕方なく帰って行った人々の姿が目に浮かびます。
・この譬え話は、主イエスの次のようなことばで終わっています。
16節「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
・つまり、先にこの主人との信頼関係ができて、ぶどう園の力となっていた人たちは、・・そのよき関係を最後には壊してしまい。ずっと後になって、ようやく主人との関係ができた人たちに、その良き関係という点で、先を越されてしまった。このようなことは意外とよく起こることなのです。
主イエスはこのように語られるのでした。
②ところで、聖書に出てくる譬え話のところを読んでゆきます時、(これは言うまでもない事ですが・・)
そこに登場する人物やその場所、それは、何を譬えているのか・・そのことがよくわかっていませんと、その譬え話に語られている、神さまからのメッセージが正しく見えてきません。
・そういうわけで、きょうは、先ず、そのことを確認しておきたいと思います。
最初に、この「ぶどう園」ですが・・これは、神の御国のことを表わしているということは誰にもわかります。
・そして、ここに出てくる、主人、これは、神さまのことであるということは言うまでもありません。
少し難しいのは・・ここに出てくる「先の者」と「後の者」とは、いったい、誰のことを指しているのかです。
・きょうのこの箇所、また、その少し前からのところ・・、その文脈を丁寧に読んで行きますと・・
この譬え話を、その時直接聞いていた弟子たちは・・、「先の者」とは、最初に主イエスに招かれた者たち。
つまり、ペテロをはじめ12人の弟子たちのこと。 そして、「後の者」とは、その後に、主イエスに従って弟子たちの仲間になっていった者たちのことを譬えているようだ。このように受け止めていったと考えられます。
・しかし、もしかすると、その弟子の中には、もう少し大きいスケールで主イエスの宣教を聞いていた弟子もいたかもしれません。そのような弟子は、「先の者とは、ユダヤ人キリスト者のこと。後の者とは、この後加えられてゆくであろう異邦人キリスト者のことを譬えているのではないか・・」
このように考えていたかもしれません。 それは、それとして・・
・では、現代に生きている私たちは、この「先の者、後の者」とは、誰のことを指している、と、理解しながら
ここを読んでいくべきなのでしょうか・・。
・私はやはり、「先の者」とは、若くして、自己中心の生き方から回心し、そこから、ずっと長い間、一生懸命、
神さまにお仕えてきたキリスト者たちのこと。
・「後の者」とは、長い間、自分の為にだけ生きてきた人たちが、晩年になって、ようやく神さまに従う者になっていった。いわば、にわかキリスト者たち、つまり、神様にお仕えした時間がとても短かかった人たちのことを指している・・そのように読んでゆくことが、一番素直な読み方であると思います。
・また、そういう具体的な読み方をしてゆきますときに・・ここにある主イエス・キリストのメッセージがよりよく見えてくると思います。
・皆さんの中にも、「ああ、私はもう長い事主にお仕えしてきたなあ・・」そういう思いを抱いている方がおられるかもしれません。そういう思いの方は、ご自分のことを「先の者」と理解されているのだと思います。
・しかし、その一方で・・「ああ、私はなぜもっと若い頃から、主と共に歩む者にならなかったのだろうか・・」
そういう、どこか悔やむ思いを抱きながら、ここを読んでゆかれる方もいらっしゃると思います。
そういう思いの方々は、ご自分のことを「後の者」と理解しておられるのだと思います。
③ところで、きょうのこの譬え話ですが・・この譬え話は、読み手によって、大きくその評価がわかれる、そういう譬え話であると思います。
・「すばらしい譬え話だ」と思う方もいれば、その一方で、「この譬え話、何かわだかまりを感じる。あまり好きになれない。」そうおっしゃる方もおられる。
中には、「こんな話、聞いてはいられない、とんでもない話だ」そんな風に思う方もおられるかもしれません。
〇あれは、牧師になってまだ間もない頃でした・・。
一人の求道中の女子高校生から、こんな質問をされたことがありました。
・「私の父は、『教会ではな、朝からずっと働いてきた人間と、終わり際にちょっとしか働かなかった人間と同じ賃金でいいのだ。こんな話をしてるらしいぞ。いいか、そんな所にはもう絶対に行くなよ。』そう言うんです。 先生、教会では、本当にそんな話をしているんですか?」
・この質問に、私がどう答えたのか・・すっかり忘れてしまいました。しかし、この質問は、非常に印象深い質問でしたので、今でも、その時の彼女のその表情や言い方をはっきり覚えています。
・この方のお父様は、きっときょうの聖書箇所のことを言っておられるのではないかと思います。
ここまで大きな誤解をする方は、教会の中には、なかなかおられないのですが・・
確かに、「この聖書箇所は、何かわだかまりを感じる・・・」そうおっしゃる方は教会内にも結構多いかもしれません。
・では、一番わだかまりを感じやすいところは、どこかですが・・それはおそらく、このぶどう園の主人が、労働者たちに報酬を渡す場面にあると思います。
・このぶどう園の主人は、何と、最初に来た者も・・最後に来た者も同じ賃金を払ったのでした。
・いやそれだけではありません。この主人は、最後に来て、一時間ほどしか働かなかった人たちに、最初に賃金を払ったのでした。「朝早く来た者から、賃金を払うのが、順序というものではないか・・」だれもがそんな風に思います。 しかし、実は、ここが、きょうの聖書箇所の急所なのです。
④では、なぜ、ここで、わだかまりを覚える方が多くおられるのかです・・
・先ず、私たちは、大抵、沢山働いた人、沢山努力した人は、立派な人で、尊敬されに値する人物。また、そのような人は、多くの報いを得て当然。そういう考え方、そういう価値判断を持っているのだと思います。
・つまり、報酬は、その人が仕事に携わった時間、労力、 また、そのことによる成果によって、違いがあってしかるべきだという考え方です。ですから、私たち人間が、人間を雇う場合、当然ながらそこには、報酬の格差、扱いの格差が生じてくるわけです。
・また、人間は、より沢山働く人、より沢山働ける人、能力を発揮する人、そういう人を高く評価してゆく。
そういうことが、尊敬を集める要素になってゆきます。
・その反対に、能力の乏しい者、あまり役に立っていない者、そう思われている人たち、どうしても評価は低く、いつの間にか冷たく扱あつかわれることになる・・これが人間社会のあり様。現実です。いや、当然のこと、社会の常識と言っていいと思います。
・ですから、この譬え話を、文字通り、人間社会の作り出している、働きとその報酬の話そのもの、として読んでしまいますと、これはまったくもって合点のいかない話であるということになるわけです。
・しかし、主イエス・キリストがここで語られているのは・・どこかの会社で働いている労働者のその報酬。そのような話ではないのです。ここで譬えられているぶどう園とは、神さまの御国のことなのです。
・ですから、ぶどう園で働くとは、神さまの呼び掛けにこたえて、主イエス・キリストを我が主とお迎えし、神の民とさせていただき、その恵みの中にあって生きてゆく事を表わしているのです。
・しかし、この御国に招かれてゆくそのタイミングは、一人一人違います。
ある人は、少年、少女時代に、神さまに愛されていることに気づかされ、愛されているにもかかわらず、その方に従っていない、その己の罪に気付き、回心し、神の民となってゆきます。早い人は10代前半です。
・しかし、いろいろと遠回りして、気が付くと、晩年になってしまっていた。しかし、神さまの憐れみにより特別枠のように回心する機会が与えられ、そこでようやく、御国の住民にさせていただいた・・そういう方もおられるわけです。
・では、そういう違いのある人々への、神さまのまなざしはどういうものなのか・・このことを主イエス・キリストは、この譬え話によって語っておられるわけです。
⑤ところで私は、先程、この箇所にわだかまりを覚える方が意外に多い、そんなことを言い出しましたが・・、ではこの私自身は、この聖書箇所をどう思っているのかについて、少しお話をしたほうがいいと思います。
・新約聖書の福音書というところには、主イエス・キリストの語られた譬え話がたくさん残されています。
・その一つ一つを読んでゆきますと、本当に神さまの愛について深く教えられる譬え話ばかりです。
・しかし、私は、その中でも、きょうのこの譬え話が、何と言っても、一番心動かされるのです。最も好きな譬え話はどれか、と 聞かれれば、間髪入れず、きょうの聖書箇所と答えると思います。
・もし、最晩年になって、何も出来なくなり、ただ寝たきりの老人になったその時には、この聖書箇所を誰かに、ゆっくり朗読してもらえたら・・どんなに幸せだろうか・・そんなことを考えたりします。それほど、この譬え話が大好きです。
・なぜ、それほど感動させられているのかですが・・それは、この譬え話は、私にとって、「神さまが、自分の様な者をも、いつくしみ深く見つめておられる」そのことがとてもよくわかるからです。
・私の小さな書斎には、ルターが聖書翻訳したときの書斎の写真が置いてあります。それを見る度に思います。「本当にすごい働きをした人だなあ・・それに比べ、自分の働きはこの人の一万分の一にも届かない・・」
・そういう私ですから、私は、自分のことは、間違いなく、この譬え話で言う「後の者」だと確信しています。ですから、この譬え話を読みます時、私は当然ながら、自然と「後の者」に自分を重ねて読んでゆきます。
そうしますと・・主イエス・キリストが、ここで、後の者の側に立って、後の者を熱い思いで見つめておられることが、とてもよくわかります。
・このぶどう園の主人は、「先の者たち」から非難されるほど、嫉妬されるほど、後の者をひいきしている・・
先の者たちに申し訳ないほど、やさしく接している・・そのことがわかります。
・自分は、どちらかと言えば、先の者ではないか・・そう思って読んでゆくその方には、その神さまのあわれみ深いメッセージはわからないと思います。
・では、これほどまでに大事にされている、後の者たちとは、どういう人たちだったのでしょうか・・。
・この「後の者たち」は、もう日が暮れそうになっている時間に、ぼーっとして町の市場に立っていたのです。
すると、その時、一人の人が近づいて来て、こう聞きます。「なぜ、一日中何もしないで、ここに立ってているのですか」 彼らは、「働きたくないからです。」とは言えず、こんな言い訳を言います。「だれも雇ってくれないからです。」
・つまり彼らは、言わば落ちこぼれの人たちでした。
では、彼らはなぜ落ちこぼれていたのかですが、その理由は、さまざまであったと思います。
虚弱体質の人もいたでしょう。人と対面すること自体が息苦しくいつも生きづらさの中に居る、そういう人もいたでしょう。体がうまく働かず、働かなければ働かなければと思いながらも、労働意欲が出て来ない、そういう人もいたと思います。
・厳しい人でしたら、「何となさけない連中なんだ・・」そう言い出すかもしれません。 しかし、その声を掛けてきたぶどう園の主人は、非難めいたことは一切言わずに、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と言うのでした。
・この・・人間たちの、常識だとか、正しさだとか、そういう考え方を、遥かに超えた、神さまのあわれみ深さ、やさしさ、寛容さに、私は感動するのです。
⑥私がこの譬え話で感動させられていることがもう一つあります。それは、次のようなぶどう園の主人の言葉です。「わたしはこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」
・神さまに招かれ、ぶどう園に入ることがゆるされた人たち、と言っても、考えてみますと、その差は実に大きいと思います。
・先程、ルターの書斎の写真についてお話ししましたが・・、
キリスト者と一言でいっても、その働きの違いは、とてつもない差があるのではないでしょうか・・。
・使徒パウロとか、ルターとか、カルヴァンとか、バッハとか、三浦綾子とか、そういう人たちの働きはもうすごいの一言です・・それ以外にもすごい働きをした方々の名前をあげたらきりがありません。
・一方、ようやく洗礼を受け、皆に迷惑をかけた、かと思うと、まもなく御国に召される方もおられます。
・しかし、この譬え話で、私たちが思い知りますのは・・この御言葉です。
「わたしは、この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」
・あなたも、皆と同じ様に、天の御国に行きなさい、と言ってくださる、と言うのです。
・何という、寛容でしょうか・・・これが、私たちの主イエス・キリスト、その方なのです。
・この方のまなざしをあびながら、今週も前進してゆきたいと思います。
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