「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(イザヤ55:1)
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今回は、旧約聖書のイザヤ書から13回目のメッセージです。前回私は、「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」(イザヤ54:8)とのテーマで語りました。イザヤは、イエスの十字架での罪の贖いの業を53章で預言しています。そして続く54章では、エルサレムに向けて、回復の業が始まることが預言されています。誰も住まなくなった町、荒廃した町、エルサレムに向かい、喜び歌えと呼び掛けています。それは十字架での贖いの業が完成したからです。バビロンにとらわれて行った人たちも贖なわれ、回復の業が始まるのです。永遠に変わらぬ愛をもって、私たちを哀れんでくださる神ご自身が、この回復の業を起こしてくだるのです。続いて、55章では、神が備えておられる救いを受け入れて生きるようにとの招きのメッセージが書かれています。それも2部に分けて、救いを受け取るように、そして神ご自身を信じて、み言葉に従って生きるように、イザヤは私たちにチャレンジしています。私たちは素直な心でそれらの招きに答えていきたいと思います。それでは、55章を読んでみてください。
1節には、「ああ。渇いているものはみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」とあります。ここでは、「出て来いと、買って食べよ。」との表現が強調されています。神が救い主イエスをこの地上に送り、十字架につけて人類の罪の贖いをする、これは私たちが理解できないほどの大きな神の愛の業です。神ご自身が代価を払って、人類の罪の赦しを与えてくださったのです。イスラエルの民は、バビロンに連れていかれ、家も、お金も地位も、すべてを失ったのです。そのような失望の中にある民に、渇いているものはみな、水を求めて出て来い。と語りかけています。水は、中東ではお金を払って売買されるほどに大切なものです。もちろん、穀物も、ぶどう酒も乳も水と同様に大切なものです。これらの大切な物のためにはそれなりの代価が必要です。しかし、神が代価を払ってくださったとしたらどうでしょう。すでに十字架での贖いによって代価が支払われているので、代価を払わないで救いを受け取ることができます。私たちは神の招きに応答すればよいのです。イザヤは買うとの表現を取っています。あくまでも、神ご自身が代価を払ってくださったので、私たちは代価を払わないで、買うことができるのです。2節では、私たちに何のために金を払い、労するのかと問いかけています。本当に必要な食べ物は何なのか。キリストを信じ、キリストの言葉に聞き従うこと、これ以上に信仰者にとって大切なことはあるのかと問いかけています。ちょうどイエスの足もとにすわって、みことばを聞き入っていたマリヤのように。参照ルカ10:38-42。
3節には、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」と書かれています。ダビデへの契約とは、第二サムエル7:12-14節に書かれている内容です。それは救い主がこの世に生まれ、ダビデの王位を継承して、永遠の御国を治めるとの契約のことです。私たちの救い主イエスは、ダビデの王位を継承して、永遠の御国に私たちを迎えてくださる方です。この方こそ、諸国の民の君主であり、司令官なのです。5節の前半には、「見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。」と書かれています。ここでのあなたとはキリストを信じるイスラエルの民のことであり、私たち一人一人であるとも理解できます。私たちがキリストに聞き従う時に、私たちは聖なる国民、聖なる祭司としての働きをすることが出来るのです。参照第一ペテロ2:9。
6節から13節までは、2番目の招きの言葉が続いています。その招きは、主にお会いすると言う、最も個人的なものです。6節には、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」と書かれています。ちょうど、戸の外に立って私たちの心の戸を叩いているイエスの姿を思い起こします。黙示録3章20節にその姿が書かれています。戸を開ける時に、イエスとの親しい食事の席が用意されています。しかし、その前の3章19節には、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」と書かれています。主イエスとの親しい交わりの前には悔い改めが必要になります。イザヤの勧めも同様です。悪者はおのれの道を捨てることが求められています。そして、主のあわれみと赦しを体験するように勧めています。ちょうどイスラエルの民が罪を犯し、バビロン捕囚の苦しみを経験し、自由にされる時のようにです。その前に彼らは、自らを反省し、神の赦しを受けて出発する必要があったのです。それと同様に、私たちも主にお会いし、主のあわれみと赦しを経験して新たな歩みをすることが大切です。神の語られたこと、そこに何一つ無駄なことはありません。神の前に赦されている私たちの失敗も同じです。失敗を通して神は私たちに多くのことを教えてくださっています。神の思いは、私たちの思いよりはるかに高いのです(9)。そして神のみことばこそ、私たちに豊かな収穫をもたらしてくださいます(10,11)。
12節には、「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」と書かれています。信仰者一人一人が、主のみ言葉に聞き従う時に、私たちの人生に平安が与えられていきます。また、それだけではなく、この自然界も回復され和解させられていく様子が描かれています。参照イザヤ11:6-9,ローマ8:19-23。
今回はイザヤ55章から2つの招きを学びました。イエスの福音は、信じて受け入れるだけで十分です。主がすでにすべての代価を支払われたのです。この方はあなたの心の戸を叩いて、あなたが心の戸を開けるのを待っておられます。あなたが戸を開く時に、イエスの救いの素晴らしさと、み言葉の持つ力をあなたは体験することになります。そして、キリストのしもべとして、また友として、神の愛の働きをこの地上にもたらす者となるのです。ご一緒にイエスの招きに応答して行こうではありませんか。
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1節には、「ああ。渇いているものはみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」とあります。ここでは、「出て来いと、買って食べよ。」との表現が強調されています。神が救い主イエスをこの地上に送り、十字架につけて人類の罪の贖いをする、これは私たちが理解できないほどの大きな神の愛の業です。神ご自身が代価を払って、人類の罪の赦しを与えてくださったのです。イスラエルの民は、バビロンに連れていかれ、家も、お金も地位も、すべてを失ったのです。そのような失望の中にある民に、渇いているものはみな、水を求めて出て来い。と語りかけています。水は、中東ではお金を払って売買されるほどに大切なものです。もちろん、穀物も、ぶどう酒も乳も水と同様に大切なものです。これらの大切な物のためにはそれなりの代価が必要です。しかし、神が代価を払ってくださったとしたらどうでしょう。すでに十字架での贖いによって代価が支払われているので、代価を払わないで救いを受け取ることができます。私たちは神の招きに応答すればよいのです。イザヤは買うとの表現を取っています。あくまでも、神ご自身が代価を払ってくださったので、私たちは代価を払わないで、買うことができるのです。2節では、私たちに何のために金を払い、労するのかと問いかけています。本当に必要な食べ物は何なのか。キリストを信じ、キリストの言葉に聞き従うこと、これ以上に信仰者にとって大切なことはあるのかと問いかけています。ちょうどイエスの足もとにすわって、みことばを聞き入っていたマリヤのように。参照ルカ10:38-42。
3節には、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」と書かれています。ダビデへの契約とは、第二サムエル7:12-14節に書かれている内容です。それは救い主がこの世に生まれ、ダビデの王位を継承して、永遠の御国を治めるとの契約のことです。私たちの救い主イエスは、ダビデの王位を継承して、永遠の御国に私たちを迎えてくださる方です。この方こそ、諸国の民の君主であり、司令官なのです。5節の前半には、「見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。」と書かれています。ここでのあなたとはキリストを信じるイスラエルの民のことであり、私たち一人一人であるとも理解できます。私たちがキリストに聞き従う時に、私たちは聖なる国民、聖なる祭司としての働きをすることが出来るのです。参照第一ペテロ2:9。
6節から13節までは、2番目の招きの言葉が続いています。その招きは、主にお会いすると言う、最も個人的なものです。6節には、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」と書かれています。ちょうど、戸の外に立って私たちの心の戸を叩いているイエスの姿を思い起こします。黙示録3章20節にその姿が書かれています。戸を開ける時に、イエスとの親しい食事の席が用意されています。しかし、その前の3章19節には、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」と書かれています。主イエスとの親しい交わりの前には悔い改めが必要になります。イザヤの勧めも同様です。悪者はおのれの道を捨てることが求められています。そして、主のあわれみと赦しを体験するように勧めています。ちょうどイスラエルの民が罪を犯し、バビロン捕囚の苦しみを経験し、自由にされる時のようにです。その前に彼らは、自らを反省し、神の赦しを受けて出発する必要があったのです。それと同様に、私たちも主にお会いし、主のあわれみと赦しを経験して新たな歩みをすることが大切です。神の語られたこと、そこに何一つ無駄なことはありません。神の前に赦されている私たちの失敗も同じです。失敗を通して神は私たちに多くのことを教えてくださっています。神の思いは、私たちの思いよりはるかに高いのです(9)。そして神のみことばこそ、私たちに豊かな収穫をもたらしてくださいます(10,11)。
12節には、「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」と書かれています。信仰者一人一人が、主のみ言葉に聞き従う時に、私たちの人生に平安が与えられていきます。また、それだけではなく、この自然界も回復され和解させられていく様子が描かれています。参照イザヤ11:6-9,ローマ8:19-23。
今回はイザヤ55章から2つの招きを学びました。イエスの福音は、信じて受け入れるだけで十分です。主がすでにすべての代価を支払われたのです。この方はあなたの心の戸を叩いて、あなたが心の戸を開けるのを待っておられます。あなたが戸を開く時に、イエスの救いの素晴らしさと、み言葉の持つ力をあなたは体験することになります。そして、キリストのしもべとして、また友として、神の愛の働きをこの地上にもたらす者となるのです。ご一緒にイエスの招きに応答して行こうではありませんか。
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