「水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばす。」(エレミヤ17章8節)
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今回は、エレミヤ書から11回目のメッセージです。前回は、「彼らは、私の名が主であることを知る。」(エレミヤ16章21節)とのテーマで語りました。イスラエルの民が出エジプトを経験したように、バビロンから解放されて、イスラエルに戻ってくる時が訪れるとエレミヤは預言します。バビロン捕囚があるのならば、バビロンからの解放もあるのです。解放、それは神の新たなご計画です。それらの出来事を諸国の民は目撃するのです。神の視点は、諸国の民がイスラエルの姿を見て、神がおられること、神は力強いお方であることに気づくようになることです。「彼らは、わたしの名が主であることを知る。」とあるからです。それは、新たにされていくイスラエルの民を通して、諸国の民が神を知るようになることです。私たちの人生も同じであると思います。私たちは、キリストを信じて変えられたのです。そして、罪深い歩みから解放されて、救いを喜び、神との交わりを喜ぶように変えられたのです。そのように生きる私たちの人生を通して、未信者の友人や家族が、いつか神の存在に気づく時が来ることを信じて行きたいです。
今日は、エレミヤ書17章に入ります。今回私たちは、神に信頼するか、それともこの世の何かに信頼するか、その問いかけを受けたいと思います。その選択によって、私たちは祝福か、悲劇かを選ぶことになるのです。今回17章からそのようなチャレンジを受けたいと思っています。
前回16章で、神様は南ユダを裁かれ、滅ぼされる。けれども、捕囚とされたバビロンから彼らはもう一度戻ってくる。その預言を学びました。出エジプトの出来事も素晴らしいこと、それ以上にバビロンから解放される事は素晴らしいと、人々は語るようになるとの預言でした。しかし、エレミヤが見る南ユダは神から離れ、偶像礼拝に陥り、信仰を失い、悪意に満ちた国となってしまったのです。それゆえに神に裁かれるのです。17章1節から4節には、神の裁きが確実であることが再度強調されています。その理由の1つには、民の偶像崇拝の姿が挙げられています。それゆえ、彼らは捕囚とされ、自分たちの領土を失い、他国の民に仕えるようになるのです。
しかし、17章5節に、「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。」と書かれています。肉を自分の腕としとは、自分の力で何でもやろうとする人間の高慢な姿です。人はこの世の何かに頼るのか、それとも神に信頼して生きるのかを絶えず決断しなければならないのです。7節には、「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。」続く8節には、「その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照の年にも心配なく、いつまでも実を実らせる。」と書かれています。主を信頼して生きる者は、水のほとりに植わった木のようだとの表現です。神の祝福が伴うのです。詩篇の1篇には、同様な表現が出てきます。詩篇1篇3節には、「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあります。その人とは主の教えを喜びとして、昼も夜もその教えを口ずさむ者です(2節)。反対に、「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」と4節にあります。神を信頼して生きるのか、それともこの世の価値観に支配されて生きるのか、その選択をこの詩篇は私たちに迫ってきます。
選択をする上で、私たちが知らなければならないこと。それは、人はだれでも罪人であり、キリスト・イエスの贖いと赦しが必要であると言うことです。旧約時代には律法を守ることによって、人は神の前に正しい者とされましたが、新約時代に生きる私たちは、キリストを信じることのゆえに義とされるのです。エレミヤ17章9節には、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」10節には、「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」と書かれています。神様は私たちの心を見ておられます。それぞれの生き方により、行いの実を結ぶのです。神は、キリストを信じる者には、罪の赦しを与えてくださっています。しかし、この世の者に支配されて生きる生き方には、限界や壁があるものです。ある者は、富に自分の人生の価値を置きます。しかし11節には、「しゃこが自分で生まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得るものがある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」とあります。しゃことは、きじと同じ位の大きさの鳥で、1度に20個以上の卵を抱く鳥であるようです。努力をしないで富を得る。しかし、その富は長くは続かない。そのようなことを意味する表現であるようです。富そのものは、永遠ではないことを私たちは知っています。永遠である神を見上げ、罪の赦しを感謝し、神に栄光をお返しする。それが私たち信仰者の歩みです。
14節から18節までは、エレミヤの祈りです。私は正しい選択をしているのに、主を信頼する生き方をしているのに、イスラエルの民に受け入れてもらえない、その苦労の中での祈りです。14節には、「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。」とあります。エレミヤは、正しい選択をしようとしますが、現状は何一つ変わらない、そのような厳しい現実に直面しています。その中で神に向かって、私を癒してくださいと祈ります。16節の前半には、「しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、避けたことはありません。」とあります。彼は、人ではなく、神に従う牧者として生きることを選んだのです。神のみ旨に従い、神の民を導きたい。そう決断しているエレミヤがいます。しかし、この祈り全体を通して、「私がうろたえないようにしてください。(18)」、そして、「あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。(17)」とエレミヤの心からの祈りが捧げられています。
19節から27節までは、安息日の祝福について書かれています。私はなぜエレミヤが安息日を取り上げたのかなと問いかけながらこの箇所を読みます。安息日は、神が最初に人類に与えられたものです。律法よりも先に与えられ、また、モーセの十戒の中心であると言えると思います。安息日に荷物を運ばない、仕事をしない、安息日をきよく保って、との表現は、神の恵みを覚える日として、安息を持ちなさいとの勧めです。私たちも、安息の日に、神の素晴らしさを思い出し、神の恵みに感謝をするのです。そのように安息を持つことができたらなんと幸いなのかなと、私はこの箇所から思います。
今日の最初の問いかけである神を信頼して生きる生き方は、安息を喜ぶ生き方につながっていると私は思っています。イスラエルの民が、神が喜ばれる安息の姿を求めていく時に、エルサレムが再度礼拝を捧げる場所となるとの希望が書かれています。主に信頼する、豊かなみ言葉の励ましをいただいて、しっかりと根をはる人生を目指してまいりましょう。
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