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「神の恵みによって、私は今の私になりました。」第一コリント15章10節

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今日はイースター礼拝です。第一コリント15章10節の言葉、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」 このみ言葉を取り上げてみます。イースターとは、キリストが死からよみがえられたことをお祝いするキリスト教の祭典です。イースターを通して、神の人類に対するご計画が明らかにされて行きます。神のご計画とは、罪を犯した人類に救いの道を提供することであり、人が永遠を神と共に生きる道を提供することです。人類の救いのご計画は、旧約聖書の中にまず預言されています。その救いは、イエスの生涯を通して成就されて参ります。具体的には新しい救いの道は、キリストの誕生、十字架での死、そしてキリストのよみがえりによって提供されて参ります。今日はキリストのよみがえりに出会ったパウロの御言葉を取り上げ、イエスの復活の事実を見てみます
まず、旧約聖書エレミヤ書31章31節からのみ言葉を抜粋して読んでみます。「見よ。その日が来る。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。・・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らがわたしの民となる。・・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」ここでエジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約とはモーセの律法のことであり、新しい契約とは、キリストによってもたらされる恵みの契約のことです。
もう一度言いますが、新しい契約とは、イエス・キリストによって新たに与えられる神と私たちとの契約です。その契約の一部を私たちは聖餐式を通して毎月体験しています。
それでは第一コリント15章1節から読んでみます。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなた方が受け入れ、また、それによって立っている福音です。・・・私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って3日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから12弟子に現れたことです。」
キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また聖書に従って3日目によみがえられたこと、このみ言葉を少し考えてみます。ここでの聖書とは、この文脈では旧約聖書を指しています。救い主が生まれる。この方は神の子と呼ばれる。彼は、私たちのために十字架について、私たちの罪を背負われる。人類への裁きをその身に背負って贖いの業をなす。そして3日目によみがえる。これらの預言的な内容は旧約聖書が私たちに伝える内容です。その原点は神の愛ゆえになされる決断です。神は私たちを永遠の交わりに入れようとご計画されたのです。これらは旧約が私たちに教える内容です。旧約聖書のエレミヤ書は、律法を守って義とされる生き方から、救い主を信じて生きる生き方に代わる時が来ることを預言しているのです。
パウロの人生を考えてみましょう。パウロほど大きな人生の転換点を迎えた人はいないと思います。彼はキリスト者を迫害し、教会を滅ぼそうとした者です。しかしそのような彼も、キリストに出会うことになります。その詳細は使徒行伝の9章の1から19節に書かれています。3節には、ダマスコの近くまで来た時、彼は、天からの光に打たれて地に倒れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」との声を聞くことになります。5節には、「主よ。あなたはどなたですか。と言うとお答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と書かれています。この復活のイエスに出会う、この出来事が、彼の人生を全く変えることとなります。
このサウロは後にパウロと名を変え、バルナバによって育てられ、最も偉大な伝道者と変えられて行くのです。復活されたイエスにお会いした、これが彼の新しい信仰の原点です。もしキリストが復活されなかったのなら、パウロの回心は起こらなかったでしょう。パウロ自身も、コリント第一15章14節で、「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」と書いています。またイエスの語られた言葉、特にヨハネ14章2、3節には、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたなら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。私のいる所に、あなた方をおらせるためです。」と書かれています。もし復活がなかったのなら、天国に私たちを迎えてくださる、このようなイエスの言葉は意味のない言葉になってしまいます。
しかし、私はキリストが復活されたことを信じる者です。パルロは、キリストの復活の命に私たち信仰者も預かるものであるとの信仰を持っています。第一コリント15章21-22節には、「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」と書かれています。それは、人が新しい洋服を着るように、朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(Ⅰコリント15:53)と表現されています。
キリストの復活は真実である。私たちもいつか、キリストの復活の命に預かる。私たちは朽ちない体に変えられて、神と永遠を共にする。それが私たちの信仰です。今まで死を恐れていた人達が、キリストを信じ、永遠を愛に満ちたイエスと共にする、そのような希望を持つ者となって行くのです。このイースターの時キリストと永遠を共にする、そのことを考える時としたいと思っています。
教会を迫害したパウロは、自らを、「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。」と語ります。続いて、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」と振り返ります。神の恵みによって今の私があり、私の働きがある。何一つ私には誇るものはありません。それが彼の人生感です。私たちも、そのパウロの思いを共にする者でありたいです。命が与えられていること、今の人生が支えられていること、また、永遠を神と共にする希望が与えられていること、すべて神の恵みであると思うのです。 復活されたイエスにお会いするまで、神の恵みを覚えた生活を目指して行きたいです。
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まず、旧約聖書エレミヤ書31章31節からのみ言葉を抜粋して読んでみます。「見よ。その日が来る。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。・・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らがわたしの民となる。・・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」ここでエジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約とはモーセの律法のことであり、新しい契約とは、キリストによってもたらされる恵みの契約のことです。
もう一度言いますが、新しい契約とは、イエス・キリストによって新たに与えられる神と私たちとの契約です。その契約の一部を私たちは聖餐式を通して毎月体験しています。
それでは第一コリント15章1節から読んでみます。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなた方が受け入れ、また、それによって立っている福音です。・・・私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って3日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから12弟子に現れたことです。」
キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また聖書に従って3日目によみがえられたこと、このみ言葉を少し考えてみます。ここでの聖書とは、この文脈では旧約聖書を指しています。救い主が生まれる。この方は神の子と呼ばれる。彼は、私たちのために十字架について、私たちの罪を背負われる。人類への裁きをその身に背負って贖いの業をなす。そして3日目によみがえる。これらの預言的な内容は旧約聖書が私たちに伝える内容です。その原点は神の愛ゆえになされる決断です。神は私たちを永遠の交わりに入れようとご計画されたのです。これらは旧約が私たちに教える内容です。旧約聖書のエレミヤ書は、律法を守って義とされる生き方から、救い主を信じて生きる生き方に代わる時が来ることを預言しているのです。
パウロの人生を考えてみましょう。パウロほど大きな人生の転換点を迎えた人はいないと思います。彼はキリスト者を迫害し、教会を滅ぼそうとした者です。しかしそのような彼も、キリストに出会うことになります。その詳細は使徒行伝の9章の1から19節に書かれています。3節には、ダマスコの近くまで来た時、彼は、天からの光に打たれて地に倒れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」との声を聞くことになります。5節には、「主よ。あなたはどなたですか。と言うとお答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と書かれています。この復活のイエスに出会う、この出来事が、彼の人生を全く変えることとなります。
このサウロは後にパウロと名を変え、バルナバによって育てられ、最も偉大な伝道者と変えられて行くのです。復活されたイエスにお会いした、これが彼の新しい信仰の原点です。もしキリストが復活されなかったのなら、パウロの回心は起こらなかったでしょう。パウロ自身も、コリント第一15章14節で、「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」と書いています。またイエスの語られた言葉、特にヨハネ14章2、3節には、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたなら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。私のいる所に、あなた方をおらせるためです。」と書かれています。もし復活がなかったのなら、天国に私たちを迎えてくださる、このようなイエスの言葉は意味のない言葉になってしまいます。
しかし、私はキリストが復活されたことを信じる者です。パルロは、キリストの復活の命に私たち信仰者も預かるものであるとの信仰を持っています。第一コリント15章21-22節には、「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」と書かれています。それは、人が新しい洋服を着るように、朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(Ⅰコリント15:53)と表現されています。
キリストの復活は真実である。私たちもいつか、キリストの復活の命に預かる。私たちは朽ちない体に変えられて、神と永遠を共にする。それが私たちの信仰です。今まで死を恐れていた人達が、キリストを信じ、永遠を愛に満ちたイエスと共にする、そのような希望を持つ者となって行くのです。このイースターの時キリストと永遠を共にする、そのことを考える時としたいと思っています。
教会を迫害したパウロは、自らを、「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。」と語ります。続いて、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」と振り返ります。神の恵みによって今の私があり、私の働きがある。何一つ私には誇るものはありません。それが彼の人生感です。私たちも、そのパウロの思いを共にする者でありたいです。命が与えられていること、今の人生が支えられていること、また、永遠を神と共にする希望が与えられていること、すべて神の恵みであると思うのです。 復活されたイエスにお会いするまで、神の恵みを覚えた生活を目指して行きたいです。
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