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「あなたの王を見よ」 (聖書箇所: マルコの福音書1:1)

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皆さん、おはようございます。IBFで宣教メッセージを語らせていただく場にこうして戻って来られたことを感謝します。一年間のお休みを認めてくださったIBFの役員の方々に感謝します。おかげ様でこのお休みでリフレッシュできました。この素晴らしい教会で、準備万端、新しい気持ちでまたお仕えしていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
さて、今日からマルコの福音書を学んでいきます。実はマルコの福音書を二人のノンクリスチャンの英会話の生徒さんと現在学んでいるということもあり、選びました。登場人物や聖書の概念や用語など、聖書の背景を知らない方に聖書を理解してもらうのは難しいです。でも同時に、その生徒さんたちに寄添いながら共に学んでいくことや、聖書が自分と関わりがある書物だと感じてもらうにはどうしたらよいか考えることは喜びでもあります。これまで私が学んできた聖書の内容が皆さんの人生にも関わっていると感じていただければ嬉しいです。
マルコの福音書を始めていく前に、まず「ゴスペル(福音)」という言葉の意味についてお話していきたいと思います。マルコの福音書が書かれた2千年前、最初に読んだのはどんな人達だったでしょうか。そして、何故現在の私たちにとって大切なのでしょうか。まずお祈りしましょう。
福音が当時の読者にどのような意味があったか?
マルコの福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という文から始まります。マルコはこの始まりの文を「さあみんな、イエスのことを教えてあげますよ」とさらっと軽く言っているわけではありません。「ゴスペル(福音)」という言葉が当時の最初の読者にとってどんな意味があったのかを知るなら、深い意味があることがわかります。
最初の読者たちはクリスチャンで、主にローマに住む異邦人でした。「異邦人」とは、「ユダヤ人ではない人々のこと」です。彼らはユダヤ人の文化をよく知らなかったので、マルコはしばしばユダヤ人の文化について説明しています。
しかし、実は異邦人は「ゴスペル(福音)」の意味をよく理解していました。ギリシャ語ではeuangelionです。アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」をご存じなら、この言葉と同じです。Euangelionは「よい知らせ」という意味です。でも、「ねえねえ、いいこと知ってる?イオンですごいセールがやってるよ」というようなよい知らせより、もっと深い意味があります。
初期のクリスチャンがeuangelionという言葉から思い浮かべたのはローマ皇帝です。「福音」という言葉はローマ皇帝と結びついていました。「福音」は、征服した領土などローマ皇帝が帝国に平和をもたらしたことを表わす言葉だったのです。例えば、西トルコにはアウグストゥス皇帝について記された石碑が現存しています。その石碑にはアウグストゥス皇帝は救い主で、全人類に利益をもたらすと記されています。また、「神アウグストゥスの誕生日は世界の福音の始まりであった」とも書かれています。
マルコはこの「福音」という言葉を引用して、イエスを表しました。マルコは読者に「あなたの王を見よ!」と言っていたのです。
これはローマ皇帝の権威に対する明らかな挑戦状でした。マルコは「皇帝はあなたの王ではない。皇帝は神ではなく、イエス・キリストこそが神であり王なのだ」と主張したのです。これは単なる気の利いた言葉遊びなどではありませんでした。ローマのクリスチャンにとって、物議をかもす危険な表明でした。その後数世紀にわたり、ローマ帝国によるキリスト教の迫害が続き、クリスチャンは信仰のために命をかけました。
イエスはどのような王であったか?
何故、初期のクリスチャンたちは迫害される状況下で、自分の目で見ることはできない王に忠誠を捧げることができたのでしょうか。マルコの福音書にはイエスがいかに褒め称えられるべき王であったか書かれています。
他の福音書とは違い、マルコの福音書ではイエスについての情報があまり書かれていません。イエスの誕生、子ども時代、系譜などについては触れられていません。福音書のほぼ初めから、イエスの生涯の最後の数年間にイエスが為したこと、言ったことを記しています。イエスという王について簡単にまとめましょう。
ローマ帝国時代の皇帝とは違い、イエスは権力によって王国を広げることはしませんでした。イエスの王国は愛の王国で、敵をも愛しなさいと言われます。イエスという王は、病の人を癒し、悪魔から人々を解放します。イエスは私利私欲のために何かされることはなく、快適な場所に留まるといったこともされませんでした。実際、イエスは生涯、一定の住まいを持ちませんでした。地上でのイエスの生涯のクライマックスは、人類の罪のために自ら進んで死を選び、ローマ兵士にまるで罪人のように十字架にはりつけにされたことでした。彼がかぶったのは金の冠ではなく、いばらの冠でした。一見、イエスは失敗して、ローマ帝国の支配者たちによって踏みにじられた厄介者のようにさえ見えます。クリスチャンの皆さん、あなたの王を見よ!?
使徒パウロは、ローマの主要都市であったコリントの教会への手紙の中で、福音は「異邦人にとっては愚かでしょう」と述べています。何故王がこのような形で死ぬのでしょうか。学校の親友が福音を伝えてくれた8歳の時、私はそう思いました。そして、「そんなのどういう神様なんだ。馬鹿みたい。」と思いました。
この知らせがどういうよい知らせなのでしょうか。今日においても私たちが信じるものは多くの人々にとって馬鹿げたものかもしれません。しかしパウロはコリントの人々に言いました。「...神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:25)
ローマ皇帝の王国は領土のために戦い、人々を支配しました。神の王国は私たち自身の心の中にある敵を追い払い、心を支配するものから私たちを自由にします。聖書を学び続け、それを人生に適用していくと、神の美しさ、知恵、力が私たちの人生の中で表れてきます。
福音は今日の私たちのどのような意味があるのか
皆さんに考えてもらいたい質問があります。それは「誰があなたの王ですか。誰があなたの主人ですか。」という質問です。これは私たちの人生を決定づける、とても大事な質問です。私たち一人ひとり、結局は誰かや何かに仕え、それに支配されています。
私の友人で、エンタテイメント業界に勤めている友人がいます。彼は頑張って夢をかなえ、その仕事に就いたのですが、今はその仕事が大嫌いになってしまいました。ほぼ毎週、彼は上司に認められるような仕事ができるか不安にさいなまれます。上司が否定的なことを言う前から、彼は上司の否定的な評価を想像してしまい、不安に陥り過剰なストレスとなって、ちゃんと息ができないほどです。
転職のことも彼と話し合ったのですが、「お金が必要なんだ」と友人は言います。彼は今の仕事を何とか続けていくために、高価な精神安定剤を買うお金が必要なのです。また、ストレスから一時的に解放させてくれる趣味にもかなりお金を使っているようです。
何か月も前にその友人は私にこう言いました。「君のイエスが僕の人生とどういう関係があるのかわからない。君たちクリスチャンが話すのはいつも死後の人生じゃないか!僕は死ぬことなんか怖くないんだ。だってもし死ねば、この仕事から解放されるんだから。僕が怖いのは生きていくことなんだ。」と。その言葉で、福音が友人の人生や仕事にどう関わっているのだろうかと考えさせられました。
福音は死後に起こるものと捉えるなら、日常で今、人々が生きていることと福音とは何の関係もないということになります。でも、私たちの人生や仕事、自分が何者であるかについての考え方を変える力が福音にあるとするなら、福音は私たちに生きる意味や目的を教えてくれる、本当に素晴らしい知らせとなります。
本当に私はこのことを友人に伝えたいと思います。福音は友人にとっても本当に素晴らしい知らせであり、イエスを彼の人生の王とすることが、自由や生きる意味を見出す招待状であると伝えたいです。何故なら、イエスにあっては、自分の価値が自分の頑張りで決まることはもうないからです。代わりにイエスが私たちのために十字架に架かって成し遂げてくださったからです。イエスが私たちの人生の主なので、単に生計を立てるために、懸命に働いてお金を稼いで生活していくことが私たちの人生の目標ではありません。現実の生活ではいろいろな上司の下で働いているかもしれませんが、私たちが本当に心を尽くし仕えるのは、その上司たちや会社ではなくて、イエスです。「上司や会社が自分に何をしてほしいか」から「イエスはこの会社で私に何をしてほしいのか」に私たちの優先順位は変わるのです。イエスは、あらゆる面で私の友人に自分自身の尊さ、人生の目標や方向性を与えることを約束してくださっています。
残念ながら、自分や自分の頑張りを他人がどう評価するかで、自らの価値が決まる世界で未だに友人は生きています。このような世界では、結局のところ、食べていくためにお金を稼いで、世間的にちゃんとした生活をして、孤独や退屈、いらいらした気持ちを紛らわすためにお金を使うというような人生で終わってしまうでしょう。その王国では、(神からの)無償の恵みを信じることができません。皆さんはそのような世界で生きていきたいですか。もしもっとよい世界で生きていけるのなら、それは素晴らしい知らせではないですか。
友人がイエスの王国という、今とは全く違う世界を経験できるように引き続き祈っていきたいと思います。そしてイエスがどのようなお方か知ることができるようにも。イエスだけが友人に真の休息や平安を与えるお方です。恐れや、よその誰かに必死でなろうとすることや自分で何とかしようとすることから解き放たれた平安です。
結び
イエスがあなたの王であることはどんな意味があるでしょうか。私たちはずっとその答えを探し続けていくでしょう。
普段の生活で、自分を支配しているものに気付くことから始めるのもよいかもしれません。例えば心配や、完璧主義、人に好かれたい気持ち、何かに夢中になりすぎること、かけがえのない人との関係、他人の意見など、あなたを支配しているものはありませんか。イエスをあなたの王とするなら、あなたは、イエスがあなたをどのようにデザインしたかを発見する旅路の途中です。イエスはあなたとの交わりを望んでおられて、あなたはその交わりの中で成長していくのです。また、イエスはあなたが他者とも交わりを持つことも望んでおられ、あなたはその関係においても成長していきます。あなたは、イエスが建てあげている王国の中で、愛に満ちた交わりの中で喜んで生きているのです。
マルコの福音書を読むとき、イエスの言葉や行動が皆さんの心の中で響いていくようにと願います。そしてイエスが十字架で死なれたこと、蘇られたこと、今も共におられることが、私たちの人生が本来どうあるべきなのか、そして厳しい現実の中でどのように生きるべきかを教えてくれるように望みます。
イエスは手の届かないような遠い王ではなくて、私たちの近くにおられる王です。イエスは今も、愛をもって私たち一人ひとりに語りかけています。
英語の聖書「ザ・メッセージ」を訳したユージン・ピーターソン師の言葉を最後に引用します。「クリスチャンは、人生の目標が自由を獲得することではなく、より素晴らしい主人の下で、仕えることを学ぶことだと知っています。そして、神がおられない付き合いや関係性はどんなものも苦しいものとなることをクリスチャンは知っています。 それに気付き、今すぐにでも神を主人として生きていきましょう。」
祈りましょう。
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さて、今日からマルコの福音書を学んでいきます。実はマルコの福音書を二人のノンクリスチャンの英会話の生徒さんと現在学んでいるということもあり、選びました。登場人物や聖書の概念や用語など、聖書の背景を知らない方に聖書を理解してもらうのは難しいです。でも同時に、その生徒さんたちに寄添いながら共に学んでいくことや、聖書が自分と関わりがある書物だと感じてもらうにはどうしたらよいか考えることは喜びでもあります。これまで私が学んできた聖書の内容が皆さんの人生にも関わっていると感じていただければ嬉しいです。
マルコの福音書を始めていく前に、まず「ゴスペル(福音)」という言葉の意味についてお話していきたいと思います。マルコの福音書が書かれた2千年前、最初に読んだのはどんな人達だったでしょうか。そして、何故現在の私たちにとって大切なのでしょうか。まずお祈りしましょう。
福音が当時の読者にどのような意味があったか?
マルコの福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という文から始まります。マルコはこの始まりの文を「さあみんな、イエスのことを教えてあげますよ」とさらっと軽く言っているわけではありません。「ゴスペル(福音)」という言葉が当時の最初の読者にとってどんな意味があったのかを知るなら、深い意味があることがわかります。
最初の読者たちはクリスチャンで、主にローマに住む異邦人でした。「異邦人」とは、「ユダヤ人ではない人々のこと」です。彼らはユダヤ人の文化をよく知らなかったので、マルコはしばしばユダヤ人の文化について説明しています。
しかし、実は異邦人は「ゴスペル(福音)」の意味をよく理解していました。ギリシャ語ではeuangelionです。アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」をご存じなら、この言葉と同じです。Euangelionは「よい知らせ」という意味です。でも、「ねえねえ、いいこと知ってる?イオンですごいセールがやってるよ」というようなよい知らせより、もっと深い意味があります。
初期のクリスチャンがeuangelionという言葉から思い浮かべたのはローマ皇帝です。「福音」という言葉はローマ皇帝と結びついていました。「福音」は、征服した領土などローマ皇帝が帝国に平和をもたらしたことを表わす言葉だったのです。例えば、西トルコにはアウグストゥス皇帝について記された石碑が現存しています。その石碑にはアウグストゥス皇帝は救い主で、全人類に利益をもたらすと記されています。また、「神アウグストゥスの誕生日は世界の福音の始まりであった」とも書かれています。
マルコはこの「福音」という言葉を引用して、イエスを表しました。マルコは読者に「あなたの王を見よ!」と言っていたのです。
これはローマ皇帝の権威に対する明らかな挑戦状でした。マルコは「皇帝はあなたの王ではない。皇帝は神ではなく、イエス・キリストこそが神であり王なのだ」と主張したのです。これは単なる気の利いた言葉遊びなどではありませんでした。ローマのクリスチャンにとって、物議をかもす危険な表明でした。その後数世紀にわたり、ローマ帝国によるキリスト教の迫害が続き、クリスチャンは信仰のために命をかけました。
イエスはどのような王であったか?
何故、初期のクリスチャンたちは迫害される状況下で、自分の目で見ることはできない王に忠誠を捧げることができたのでしょうか。マルコの福音書にはイエスがいかに褒め称えられるべき王であったか書かれています。
他の福音書とは違い、マルコの福音書ではイエスについての情報があまり書かれていません。イエスの誕生、子ども時代、系譜などについては触れられていません。福音書のほぼ初めから、イエスの生涯の最後の数年間にイエスが為したこと、言ったことを記しています。イエスという王について簡単にまとめましょう。
ローマ帝国時代の皇帝とは違い、イエスは権力によって王国を広げることはしませんでした。イエスの王国は愛の王国で、敵をも愛しなさいと言われます。イエスという王は、病の人を癒し、悪魔から人々を解放します。イエスは私利私欲のために何かされることはなく、快適な場所に留まるといったこともされませんでした。実際、イエスは生涯、一定の住まいを持ちませんでした。地上でのイエスの生涯のクライマックスは、人類の罪のために自ら進んで死を選び、ローマ兵士にまるで罪人のように十字架にはりつけにされたことでした。彼がかぶったのは金の冠ではなく、いばらの冠でした。一見、イエスは失敗して、ローマ帝国の支配者たちによって踏みにじられた厄介者のようにさえ見えます。クリスチャンの皆さん、あなたの王を見よ!?
使徒パウロは、ローマの主要都市であったコリントの教会への手紙の中で、福音は「異邦人にとっては愚かでしょう」と述べています。何故王がこのような形で死ぬのでしょうか。学校の親友が福音を伝えてくれた8歳の時、私はそう思いました。そして、「そんなのどういう神様なんだ。馬鹿みたい。」と思いました。
この知らせがどういうよい知らせなのでしょうか。今日においても私たちが信じるものは多くの人々にとって馬鹿げたものかもしれません。しかしパウロはコリントの人々に言いました。「...神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:25)
ローマ皇帝の王国は領土のために戦い、人々を支配しました。神の王国は私たち自身の心の中にある敵を追い払い、心を支配するものから私たちを自由にします。聖書を学び続け、それを人生に適用していくと、神の美しさ、知恵、力が私たちの人生の中で表れてきます。
福音は今日の私たちのどのような意味があるのか
皆さんに考えてもらいたい質問があります。それは「誰があなたの王ですか。誰があなたの主人ですか。」という質問です。これは私たちの人生を決定づける、とても大事な質問です。私たち一人ひとり、結局は誰かや何かに仕え、それに支配されています。
私の友人で、エンタテイメント業界に勤めている友人がいます。彼は頑張って夢をかなえ、その仕事に就いたのですが、今はその仕事が大嫌いになってしまいました。ほぼ毎週、彼は上司に認められるような仕事ができるか不安にさいなまれます。上司が否定的なことを言う前から、彼は上司の否定的な評価を想像してしまい、不安に陥り過剰なストレスとなって、ちゃんと息ができないほどです。
転職のことも彼と話し合ったのですが、「お金が必要なんだ」と友人は言います。彼は今の仕事を何とか続けていくために、高価な精神安定剤を買うお金が必要なのです。また、ストレスから一時的に解放させてくれる趣味にもかなりお金を使っているようです。
何か月も前にその友人は私にこう言いました。「君のイエスが僕の人生とどういう関係があるのかわからない。君たちクリスチャンが話すのはいつも死後の人生じゃないか!僕は死ぬことなんか怖くないんだ。だってもし死ねば、この仕事から解放されるんだから。僕が怖いのは生きていくことなんだ。」と。その言葉で、福音が友人の人生や仕事にどう関わっているのだろうかと考えさせられました。
福音は死後に起こるものと捉えるなら、日常で今、人々が生きていることと福音とは何の関係もないということになります。でも、私たちの人生や仕事、自分が何者であるかについての考え方を変える力が福音にあるとするなら、福音は私たちに生きる意味や目的を教えてくれる、本当に素晴らしい知らせとなります。
本当に私はこのことを友人に伝えたいと思います。福音は友人にとっても本当に素晴らしい知らせであり、イエスを彼の人生の王とすることが、自由や生きる意味を見出す招待状であると伝えたいです。何故なら、イエスにあっては、自分の価値が自分の頑張りで決まることはもうないからです。代わりにイエスが私たちのために十字架に架かって成し遂げてくださったからです。イエスが私たちの人生の主なので、単に生計を立てるために、懸命に働いてお金を稼いで生活していくことが私たちの人生の目標ではありません。現実の生活ではいろいろな上司の下で働いているかもしれませんが、私たちが本当に心を尽くし仕えるのは、その上司たちや会社ではなくて、イエスです。「上司や会社が自分に何をしてほしいか」から「イエスはこの会社で私に何をしてほしいのか」に私たちの優先順位は変わるのです。イエスは、あらゆる面で私の友人に自分自身の尊さ、人生の目標や方向性を与えることを約束してくださっています。
残念ながら、自分や自分の頑張りを他人がどう評価するかで、自らの価値が決まる世界で未だに友人は生きています。このような世界では、結局のところ、食べていくためにお金を稼いで、世間的にちゃんとした生活をして、孤独や退屈、いらいらした気持ちを紛らわすためにお金を使うというような人生で終わってしまうでしょう。その王国では、(神からの)無償の恵みを信じることができません。皆さんはそのような世界で生きていきたいですか。もしもっとよい世界で生きていけるのなら、それは素晴らしい知らせではないですか。
友人がイエスの王国という、今とは全く違う世界を経験できるように引き続き祈っていきたいと思います。そしてイエスがどのようなお方か知ることができるようにも。イエスだけが友人に真の休息や平安を与えるお方です。恐れや、よその誰かに必死でなろうとすることや自分で何とかしようとすることから解き放たれた平安です。
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普段の生活で、自分を支配しているものに気付くことから始めるのもよいかもしれません。例えば心配や、完璧主義、人に好かれたい気持ち、何かに夢中になりすぎること、かけがえのない人との関係、他人の意見など、あなたを支配しているものはありませんか。イエスをあなたの王とするなら、あなたは、イエスがあなたをどのようにデザインしたかを発見する旅路の途中です。イエスはあなたとの交わりを望んでおられて、あなたはその交わりの中で成長していくのです。また、イエスはあなたが他者とも交わりを持つことも望んでおられ、あなたはその関係においても成長していきます。あなたは、イエスが建てあげている王国の中で、愛に満ちた交わりの中で喜んで生きているのです。
マルコの福音書を読むとき、イエスの言葉や行動が皆さんの心の中で響いていくようにと願います。そしてイエスが十字架で死なれたこと、蘇られたこと、今も共におられることが、私たちの人生が本来どうあるべきなのか、そして厳しい現実の中でどのように生きるべきかを教えてくれるように望みます。
イエスは手の届かないような遠い王ではなくて、私たちの近くにおられる王です。イエスは今も、愛をもって私たち一人ひとりに語りかけています。
英語の聖書「ザ・メッセージ」を訳したユージン・ピーターソン師の言葉を最後に引用します。「クリスチャンは、人生の目標が自由を獲得することではなく、より素晴らしい主人の下で、仕えることを学ぶことだと知っています。そして、神がおられない付き合いや関係性はどんなものも苦しいものとなることをクリスチャンは知っています。 それに気付き、今すぐにでも神を主人として生きていきましょう。」
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